この城の成立に関しては同時代の記録を欠いており、詳細は不明です。
江戸時代には城としての存在さえ忘れられていたようで、城跡を寺院跡と記した文献もあります。「謎の山城」と呼ばれる所以です。
江州八幡山古城之絵図(名古屋市蔵/江戸中期写本)
上記絵図中の城跡の説明
「或ルヒト曰ク佐々木ノ付城アリ」
時代は下りますが、江戸前期以降の資料はいくつか見つかっており、それらと現地調査を合わせて研究が進められています。江戸中期の八幡山城を描いた絵図の写本(江州八幡山古城之図)に「佐々木ノ付城アリ」、別の写本には「佐々木六角ノ附城ノ跡」との説明書きがあります。
また、江戸前期成立の『淡海温故録』という資料があります。『淡海温故録』※1には、「六角崇永(氏頼)※2が岩崎山に城を築き在城」「六角氏綱の二男八幡(川端)左馬頭義昌※3が後口の岩崎山に在住にて八幡宮を守護」との記述があります。これは、北之庄城が佐々木六角氏の手によって、観音寺城の付城として築城されたことの分かる貴重な史料と評価されています。
北之庄山山頂の櫓台跡に設置の御城印カード
なお、地元自治会傘下のボランティア組織が発行する「北之庄城御城印」では、この記述に基づいて北之庄城の代表城主を「川端(八幡)義昌」としており、本サイトもこの考えによっています。(サイトデザインに平四ツ目結紋を多用するのはこれによります。佐々木氏の家紋については、「佐々木氏の家紋 六角氏と京極氏~廣田平治氏考察」(pdf)も参照ください)
※1「『淡海温故録』は、江戸時代前期の貞享年間(1684~1688)にまとめられた近江国の地誌です。著者は、内容のよく似た地誌『江侍聞伝録』(寛文12年(1672)成立)と同じ、木村源四郎重要という人物と考えられます。近江国内の郡別・村別に項目を立てて地誌としての体裁をとりながら、内容は主として中世の土豪・地頭の家系にかんすることを記しているのが特色です。とりわけ、近江守護六角氏と関係の深い武将についての記述が詳しく、信頼性の高いものであると評価されています。」(滋賀県立琵琶湖文化館サイトより)
屋形氏綱ノ二男ヲ八幡左馬頭義昌ト号シ後口ノ岩崎山二在住ニテ八幡宮ヲ守護セラレシ申也義昌ノ息川端左近太夫輝綱ハ公方光源院殿ノ近習ニテ即同時二討死也六角判官崇永ハ此岩崎山二城ヲ築キ在城ノ由也石垣等昔ノ跡今ニアリ
六角氏頼『義烈百人一首』
Musuketeer.3/CC 表示-継承 3.0
六角氏綱『義烈百人一首』
Musuketeer.3/CC 表示-継承 3.0
※2六角氏頼(うじより)…法名は崇永。南北朝時代の武将、守護大名。六角氏4代・6代当主。嘉暦元年生まれ。佐々木(六角)時信の子。足利尊氏にしたがって近江守護。尊氏の死後は足利義詮に仕える。康安元=正平16年永源寺を建立。応安3=正平25年6月7日死去。45歳。
※3八幡義昌(よしまさ)…八幡山義昌、川端義昌、河端義昌、義政とも。左馬頭。六角氏綱(南近江の戦国大名、近江国守護、六角氏13代当主)の二男。六角義賢(承禎、六角氏15代当主)の従兄。
北之庄山~岩崎山(東側北之庄沢から)
「岩崎山城=北之庄城」というのは、長年の研究の結果、明らかになったことです(戦前期には一部にそのような認識がありました)。上記文献にいう「城が築かれた岩崎山」の所在については長らく未確定でした。研究者によって八幡山とする考えさえありました(文献の八幡(山)義昌を八幡山城主とし、岩崎山城が秀次の八幡山城の前身となったとする考え)。平成になって、廣田平治氏が多年の調査に基づき最初に「北之庄城=岩崎山城」であることを明らかにして以来、氏の考えが広く認められるところとなりました。「八幡山城跡・北之庄城跡詳細測量調査報告書」(2008年3月近江八幡市・近江八幡市教育委員会)でもこの考えが採用されています。
少なくとも明治以降、現ヴォーリズ老健センターの裏山(278m峰)が岩崎山と呼ばれています。上述の市報告書では「尚、岩崎山という呼称についてであるが、地元では、ヴォーリス記念病院(現在は移転)の裏手にある山(278m峰)の周辺のことをそう呼んでいることから、北ノ庄城に関する記載であると言えます。」と記載します。江戸期の文献は、現在の八幡山(鶴翼山)の背後の山域を広く岩崎山と称していると考えられ、現在の山名(通称)では、岩崎山(278m峰)から北之庄山(254m峰)までの山域に当たるものと思われます。したがって、254m峰を「岩崎山」と呼ぶ場合は、278m峰を含めて「岩崎山」とする必要があります(主峰278m、第二峰254m)。
かつて山頂に八幡宮が座し最高点(280m)の位置する鶴翼山(八幡山)とその裏につづく峰々を二分して認識することは、各峰の機能、重要度の違いから納得できることです。また、八幡山山系は、南北におよそ直線状に伸びますが、八幡山(三角点271.8m/最高点280m)をピークとする南西部と岩崎山(278m)をピークとする北東部が、その鞍部でやや東西にずれた形状(クランク状)をしていることから、八幡山と岩崎山に二分して認識することは、山系の形状からも頷けます。
近江の城50選
公益社団法人びわこビジターズビューローによる「近江の城50選」…「『近江を制するものは天下を制する』―戦国の雄が天下人への足がかりとして重要視した要衝の地、近江。この地に築かれた城郭は1,300を超えるといわれています。安土城や長浜城、彦根城などおなじみの城や、近年発掘され、その全貌が明らかになりつつある城など、近江の城郭を城に秘められたエピソードや、ゆかりの人物などとともに紹介します。」…の50番目に「謎の城」のカテゴリーで、ただ一つ北之庄城(岩崎山城)が選ばれています。
近江のお城46選
近江城郭地図
すっかり「謎の城」が、北之庄城のキャッチフレーズとして定着しています。滋賀県内の城跡で積極的にこのように呼ばれるのは、北之庄城だけのようです(謎の城は他にもあるでしょうが)。県内において、これだけ規模が大きく遺構の保存状態がよいにもかかわらず来歴が不明な城跡は、珍しいということでしょう。加えて、中世の山城に進歩した築城技術の桝形虎口が存在するという時代観の不整合も「謎」を増幅しています。
この「謎の城といえば北之庄城」を定着させるのに大きな役割を果たしたと考えられるのが、2006年滋賀県教育委員会が広く県民に募って決定した「近江のお城46選」です。「近江城郭地図~近江のお城を歩こう!!46選」として安土城考古博物館から販売もされました。この中で「誰が、何時、何のために造ったのか?謎の城郭」「謎の城」というカテゴリーで選ばれたのが№45多喜山城(栗東)と№46北之庄城の2城でした。ちなみに多喜山城は「近江の城50選」では「安土城に先行して栗太郡一帯を支配する目的で織田信長公により築城されたものとされる」として「謎の城」カテゴリーを外れています。
その後の研究成果を踏まえれば、北之庄城も「観音寺城の付城として佐々木六角氏により築城。六角氏綱の二男八幡義昌が守護の城」などとして「近江守護六角氏と家臣団の城」のカテゴリーに移動できそうですが…