六枚橋(ろくまいばし)
ここは、武佐宿(むさじゅく)から守山宿(もりやまじゅく)へ向かう中山道(なかせんどう)が、長福寺から上田へ流れる大川を横切る地点で、ここで道は、カギ型にまがっていました。
江戸時代(えどじだい)に岩倉山の石を使って橋をかけました。その時、板石6枚、人夫425人を使ったといいます。
これが、「六枚石橋」と呼ばれ、地名となったということです。
「馬淵学区歴史のあゆみ」(馬淵公民館)より
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今の六枚橋(ろくまいばし)
車で通っていると気がつきませんが、今も六枚橋の交差点の下には川が流れ、「橋」がかかっています。
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昔の六枚橋付近(国道8号線の松なみ木)
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くろすけ山=供養塚古墳(くようづかこふん)
5世紀後半(1500年ほど昔)の豪族(ごうぞく)の墓(はか)と考えられています。全長52m、全国でもめずらしい帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)で、発掘によって、馬、人物、家形などのたくさんの「はにわ」(安土の博物館に展示)や、鉄剣(てっけん)、鉄のよろい(千僧供町で保管)などが出土しています。
「馬淵学区歴史のあゆみ」(馬淵公民館)より
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住蓮房(じゅうれんぼう)と首洗い池(くびあらいいけ)
今から800年ほど昔、住蓮(じゅうれん)、安楽(あんらく)という若い坊(ぼう)さんがいました。
上皇(じょうこう)さま(天皇の父)のお気に入りだった鈴虫(すずむし)と松虫(まつむし)という美しい女性が、住蓮と安楽の仏(ほとけ)の話を聞いて感動し、かみの毛をそって、あまさんになってしまいました。
このことにおこった上皇は、住蓮と安楽の二人をとらえらえて、死けいにすることにしてしまいました。
住蓮(じゅうれん)は、馬淵畷(まぶちなわて)で死けいにされることになりました。馬淵は、比叡山(ひえいざん)の千の僧(そう)を供養(くよう)する「千僧供」という土地がらでもあったので、見せしめにするということで、わざわざ馬淵で首をはねたのでした。
言いつたえによると、住蓮(じゅうれん)が首を切られたしゅんかん、はるか西の方、比叡山(ひえいざん)の空あたりから、見る見るうちに五色の雲がわき上がり、それがおりてきて、あっという間に住蓮(じゅうれん)の首は、その雲に乗って、西方浄土(さいほうじょうど)の方に消えていってしまったということです。
(「近江八幡ふるさとの昔ばなし」より)
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一級河川「日野川」(いっきゅかせんひのがわ)
「世のため人のため」
村地久治郎(むらちきゅうじろう)
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椿神社(つばきじんじゃ)
室町時代に建てられた門の前に、長石で区切られた通路があります。
これは、それまでつづいていた水争いをおさめた時の千僧供と岩倉の水の取り分の比、1:2を表しているそうです。
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現在の安吉橋(あぎばし)
(平成16年に新しくかけかえられる予定)
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石工の里 岩倉(いわくら)
岩倉は、鎌倉・室町(かまくら・むろまち)の時代より、岩倉山の良質(りょしつ)の石材を切り出して加工する「岩倉石工(いわくらいしく)」が生まれ、八幡城や大阪城などの工事に数多く関わり、広く全国に知られました。
昭和40年頃まで石工の仕事は続けられていました。
(岩倉町 バス停の案内板より)
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東横関 日野川のていぼう
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雪野山古墳(ゆきのやまこふん)
卑弥呼(ひみこ)の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などが出土しています。
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倉橋部(くらはしべ)
の流鏑馬(やぶさめ)
倉橋部では、万葉の昔の天智天皇(てんじてんのう)の狩りのようすを伝える流鏑馬(やぶさめ)の行事が行われています。
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東川のビニールハウスと東川メロン
「四分四分二分は神の水」の碑
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女坂(おんなざか)の伝説
奈良の昔(778年)、大和(やまと)の国の小野時兼(おののときかね)という人が、このあたりににうつり住みました。ある日のこと、とつぜん一人の美女がやってきました。そして、二人は夫婦(ふうふ)になりました。
三年後、この美女は、
「私は人間ではありません、本当は、山の向こうの平木(ひらぎ)の沢(さわ)の主(ぬし)です。これを形見(かたみ)と思って下さい。」
と言って、玉手箱(たまてばこ)を残してさって行きました。
時兼(ときかね)は、彼女(かのじょ)のことをわすれられず、その沢(さわ)に行ってみました。時兼が、沢(さわ)のふちで、かなしんでいると、彼女が、長さ10丈(33m?)ほどの大蛇(だいじゃ)となってあらわれました。時兼(ときかね)は、たいへんおどろいて、走って帰ったとういうことです。(竜王寺 寺伝より)
八日市の平木にある御沢神社は、今もとてもおいしい水がわき出ていて、たくさんの人が水をくみにおとずれています。
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不二滝(ふじたき)
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瓶割山(かめわりやま)
戦国時代(せんごくじだい)、京都へ上った織田信長(おだのぶなが)は、てきにそなえて、長福寺城(ちょうふくじじょう)を柴田勝家(しばたかついえ)守らせました。
勝家(かついえ)が城をしゅうりして守っていたとき、六角承禎(ろっかくじょうてい)が山を取りかこみ、山の上の勝家らを水攻め(みずぜめ)にしました。(飲み水をなくならせて、相手をたおす城のせめ方)
城中の水が残り少なくなったため、このまま城にこもっていても負けてしまうだけだと考えた勝家は、へいたいたちを元気づけるため、わざと刀で飲み水をためた水瓶(みずがめ)をうちわって、一気にせめて出て、てきをうちやぶりました。
このことから、長福寺城(ちょうふくじじょう)は、瓶割城(かめわりじょう)というようになり、この山を瓶割山(かめわりやま)というようになったということです。(馬淵学区歴史のあゆみ 馬淵公民館刊)
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皇子が坂(おうじがさか)の伝説
今から1900年ほど昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東のてきをせめに行くとちゅう、不二滝(ふじたき)で休けいして、瓶割(かめわり)山と岩倉(いわくら)山の間のとうげをこえて伊勢(いせ)にむかいました。このさかのとちゅうに、しきぼうの竹をつき立てておいたところ、生えついてしげったといいます。
今ある亀甲竹(きっこうちく)にはこういう話がつたえれていて、このさかを「皇子ケ坂」(おうじがさか)とよんでいます。
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蒲生野(がもうの)
蒲生野(がもうの)は、昔、天皇(てんのう)の狩(かり)のための場所でした。そのはっきりした場所はわかりませんが、雪野山を中心とした、八日市(ようかいち)、日野(ひの)、蒲生(がもう)、竜王(りゅうおう)、馬淵に広がる地いきであったと考えられています。
今から1300年ほど昔、天智天皇(てんちてんのう)が弟の大海人皇子(おおあまのみこ)や額田王(ぬかたのおおきみ)らといっしょに狩(かり)に来た時に、大海人と額田王がよんだと言われる歌は、大変有名で、全国からその歌にひかれて、やってくる人がいるほどです。
「茜(あかね)さす紫野(しの)行き、標野(しめの)行き 野守り(のもり)は見ずや、君がそでふる」(額田王)
校歌にも、
「夕日に燃(も)ゆる蒲生野(がもうの)の 茜(あかね)色なす野辺(のべ)の花」と歌われています。
馬淵から近い妹背(いもせ)の里の「妹背」は夫婦や兄妹などの関係を意味する言葉で、かつて恋人同士だった額田王と大海人皇子の仲にちなむ名前と思われ、二人の銅像が立っています。(近くの日野川の橋のらんかんにも立ってます)
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今昔物語(こんじゃくものがたり)
「安吉橋の女鬼」(あぎばしのおんなおに)
昔、倉橋部(くらはしべ)の安吉橋(あぎばし)に、おそろしい口のさけた女が出て、人の血をすうという話がありました。それを聞いた一人の武士(ぶし)が、おれがつかまえてやろうと言って、ある日、馬にのり、くらのはらおびをしっかりとしめ、馬のしりに油をぬって、橋のたもとへと向かいました。日はすでにしずんで、だれ一人通る者もなく辺りは、ぶきみにしずまりかえっていました。
その時、真っ暗やみの中に何者かの人かげが感じられました。近づいてみると、まさに女のすがたです。武士(ぶし)が言葉をかけようとすると、女はふと頭を上げました。なんと口は大きくさけ、青白い顔、目は一つで、髪(かみ)をふりみだしています。一目見るなりぞーっと身ぶるいしました。
女は急に馬にすがりついてきました。武士(ぶし)はおどろいて引き返そうとしました。しかし女鬼(おんなおに)は馬のしりに取りすがっています。むちゅうで、ふり切ろうとしてふと後ろを見ると、手の指は三つ、つめは五寸(15cm)で刀のように見え、目は大蛇(だいじゃ)のようにかがやいています。あまりのおそろしさに、ただただ観音経(かんのんきょう)をねんじて、いちもくさんににげ帰りました。さいわい馬のしりに油をぬっていたので女鬼(おんなおに)は馬に乗れずようやく助かったのでした。
それから数日後の夜、女鬼(おんなおに)はこの武士(ぶし)の弟にばけてきて、武士(ぶし)を切りころしたという話です。
(近江八幡ふるさとの昔ばなし/今昔物語 より)
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「中山道 横関の渡し」(なかせんどう よこぜきのわたし)安藤広重の浮世絵
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