県内が震源の大地震(寛文(かんぶん)地震)
五 大仏殿修造并日用のもの、うろたへし事
(五 大仏殿の修理と作業員があわてふためいたこと)
左:さし絵「大ぶつ」大仏殿からにげ出す作業員(日用の者)とたおれた境内の石どうろう
右:五章1ページ目「五 大仏殿修造并日用のものうろたへし事」
「五 大仏殿の修理と作業員があわてふためいたこと」(現代語訳)
地震のために、京都市中では多くの蔵(くら)のかわらが落ち、かべがわれて、かたむきました。くずれた蔵(くら)もありました。町人の家は、骨組がおれたり、ぬけたりしてかたむきました。たなから片づけておいた物が落ちました。女性や子どもは大変こわがって、なきさけびました。気をうしなう人もたくさんいました。
地震の前から方広寺(ほうこうじ)の大仏は、修理(しゅうり)のために頭の部分をおろして、毎日、日用のもの(作業員)が金づちでたたいてくだいていました。そこへ急に大地震が起こって、大仏殿は音を立ててゆれました。日用のもの(作業員)たちは、地震だとは思わず、大仏の罰(ばつ)があたって、今すぐに地獄(じごく)へおちると覚悟(かくご)しました。100人ほどの日用のもの(作業員)たちは、手を合わせて「わたしたちは、やとわれてやっていて、自分の考えたことではありません。わたしたちに罪(つみ)はないのでおゆるし下さい」とあやまりました。大仏のかたや手の上に登っていた日用のもの(作業員)たちは、大仏から下りて大仏殿からにげ出して、初めて地震だということがわかりました。
※方広寺の大仏:元は豊臣秀吉が建てた大仏で、奈良の大仏より大きかったが、完成の次の年(1596年)に発生した慶長伏見(けいちょうふしみ)地震でくずれた。「かなめいし」に書かれた寛文(かんぶん)地震の時の大仏は秀吉の子の秀頼が再建したもので、修理中だった。この地震でひどくこわれて修理できなくなり解体された。大仏はその後、木造で作り直されたが、火災で失われた後は再建されなかった。