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麦畑が山に(昭和新山)
「ミマツダイヤグラム」はどうやって作られたのだろう?
「ミマツダイヤグラム」と三松正夫さん
自作の観測機器と三松正夫さん
出典:「麦圃生山」壮瞥町教育委員会
画像使用許諾整理番号049
「自然は、地球は人間だけのものではなく、
ここに生きる万物共有のもの」
三松正夫著「昭和新山物語」あとがきより
この昭和新山が誕生した昭和18年~20年といえば、日本は戦争の末期、写真はおろか、紙さえ手に入らないような時代でした。火山学者も十分な調査をすることができませんでした。
そんな時代に、壮瞥(そうべつ)町で郵便局長をしていた三松正夫さんは、独自に観測方法を工夫して日夜記録をとりつづけ、昭和新山が成長していくようすのすべてを記録したのでした。
昭和23年、この三村さんの記録は、オスロで開かれた「万国火山会議」に提出されました。そして、学術的にも大変に貴重な資料であるとして多くの専門家に絶賛され「ミマツダイヤグラム」と名づけられました。
その後、三村さんは、この貴重な自然を守るために、自分のざいさんをなげうって、この山を買い取りました。そして、昭和52年、自然を、地球を、愛した三村さんは、89歳でその生涯を終えました。