麦畑が山に(昭和新山)
三松さんは、どうやって土地の変化を正確に記録したのだろう?
三松正夫さんの工夫
創意工夫による簡易定点観測法
視線が一定になるようにあごをのせる台を固定、
水平にテグス糸を張って基準にした
出典:地質ニュース597号(2004年5月)
第二次世界大戦末期の1943年12月28日、有珠山(うすざん)の北西のふもとの洞爺湖(とうやこ)温泉街を中心に突然地震が頻発し始めました。
当時、壮瞥(そうべつ)村の郵便局長だった三松正夫さんは、1910年有珠山噴火の際に東京大学の大森房吉(おおもりふさきち)博士の現地観測を手伝って「火山噴火に遭遇した者の責務は,その時あった事の詳細を客観的・科学的に観察し,次期噴火の防災に資する事である」と教えられていました。
三松さんは、この地域に地震と地殻変動(ちかくへんどう)が集中したことから、ここに新火山が誕生することを予測し、郵便局裏を定点として、試行錯誤の末に簡単な手法(右図)で、連続スケッチを描き続けました。
三松正夫さんは、子どものころから画家になりたいという夢を持ち、絵を得意としていました。そのおかげで写真フィルムなど手に入らない戦争中にも関わらず、文字記録のほかに、数多くの絵図を残すことができたのでした。
出典:地質ニュース597号(2004年5月)抜粋・改変