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島が陸続きに(桜島)

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大正噴火は大噴火のわりには命を落とす人が少なかったらしいけど、島民はどう行動したんだろう

島民の自主避難と「桜島爆発記念碑」

大正噴火関係地図

桜島爆発記念碑(大正13年建立)

(東桜島小学校の校庭内)

大正噴火が日本の20世紀最大の噴火(だいふんか)であったにもかかわらず、比較的犠牲者(ぎせいしゃ)が少なかったのは、事前の異変に気づいて住民が自主避難(ひなん)したことが理由の一つです(周辺の村や県、陸海軍もい一斉に救助船を出して避難を進めました)。避難(ひなん)には、島が半分農業、半分漁業の生活で、小船をもつ家が多かったことも幸いしました。噴火の数日前から、地震がくり返し、旧火口から白いけむりがあがったり、海岸で熱湯がわき出したりしたので、江戸時代の安永噴火(あんえいふんか)からの言い伝えもあって住民たちは、自主的に避難しました。[大正噴火関係地図]

ちなみに江戸時代安永噴火(あんえいふんか)の時は、住民8千人のうち約150人が犠牲(ぎせい)になりましたが、大正噴火では住民2万1千人のうち30人の犠牲(ぎせい)にとどまりました。

『桜島大正噴火誌』(1927年鹿児島県)によると、噴火の前日、東桜島村のうち黒神、瀬戸、脇、湯之などの地区では、住民が話し合って避難(ひなん)の準備手順を決めました。1番に船のない家の老人、子ども、女性、2番目に船のある家の家族、最後に船のない家の主人と働き盛りの者と決めて、順番に対岸の垂水、牛根地方への避難を始めました。

一方、有村地区は、役場があり、村長、学校長、警察官など当時としては知識をもった人たちが住んでいましたが、村長たちは、数回、鹿児島測候所(そっこうしょ)に問い合わせた結果、測候所の「桜島は噴火しない」という判断を信用しました。そして住民に「避難の必要はない」と指示し、自分たちも最後まで島にとどまりました。当時言われていた「桜島は休火山」という知識も災いしたようです。そのため、にげおくれた川上村長らは冬の海を泳いでにげることになり、山下収入役と大山書記が行方不明となりました。かろうじて助かった川上村長は、測候所の回答を信用して住民に多くのそうなん者を出してしまったことを後悔(こうかい)して、そのことを教訓(きょうくん)として残すことを願いました。

参考:桜島大正噴火100周年記念誌(H26),自然災害科学・特集(2019),九州大学西部地区自然災害資料センターニュースNo.49(2013)

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