江戸中期(寛政)の八幡山城跡を描いた絵図の写本(明治43年)です。中央に描かれた八幡山(城山)の右側(北ノ庄村側)に連なる峰に「〇或ルヒト曰ク、佐々木ノ付城アリト」との説明書があります。北之庄城が佐々木六角氏の観音寺城の付城であることを示す貴重な資料です。
ところで、八幡山(城山)の背後の峰々(北之庄山や岩崎山)は、北に向かって連なっています。この絵図のように八幡山の南面を正面として描くと、これらの峰々は、後ろにかくれて描くことができません。そのため、この絵図では、北之庄山と岩崎山と思われる峰々を城山(八幡山)の右側と左側に分けて描いています。
八幡山(城山)の右側すぐに描かれ峰には「此ノ峯、城山ヨリヒキキ(ヒクキ)事十分ノ二三許リ」とあり、左側の奥に間をおいて描かれた峰には「此ノ峯、城山ヨリ卑(ヒクキ)事十分ノ一許リナリ」とあります。それぞれ、城山(八幡山)との比較で、右側の峰は2、3割低く、左側の峰は約1割低いことを記しています。この描き分けと高さの説明から右が北之庄山、左が岩崎山を示すと思われます。
なお、この絵図には、面白い注意書きがあります。画面の右端に「〇城山裏ノ数峯及ビ仙行長命寺ノ諸山ノ地理ハナハダ粗之ト雖(イエド)モ、城山ノ恰合ヲ主トスルユエ自然、此クノ如シ。必ズ地理ニ泥(コダワル)べカラズ。」とあります。
「この絵図は城山(八幡山)を目的したものだから、その他の山々が不正確でもこだわってはいけない」ほどの意と解せます。