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北之庄城
(岩崎山城)

資料室
~北之庄城・八幡山

北之庄城(岩崎山城)

(1)江州蒲生郡八幡山豊臣関白秀次古城之図

江州八幡山関白秀次古城之図
名古屋市図書館蔵(使用許諾取得済)
江州八幡山関白秀次公之古城図
近江八幡市蔵

江戸中期(寛政)の八幡山城を描いた絵図の明治四十三年の写本です。八幡山の右側(北ノ庄村側)に描かれた峰に「或ルヒト曰ク、佐々木ノ付城アリト」との説明書きがあります。別の写本では「佐々木六角ノ附城ノ跡アリ」とするものもあります。北之庄城が佐々木六角氏の観音寺城の付城であることを示す貴重な資料です。

また、城山(八幡山)の背後に続く峰々が城山の左右に描かれており、右の峰には「此ノ峯、城山ヨリヒキキ(ヒクキ)事十分ノ二三バカリ」、左の峰には「此ノ峯、卑(ヒクキ)事十分ノ一ナリ」と記されています。城山(八幡山)と高さを比較して北之庄山(2、3割低い)と岩崎山(1割低い)が描き分けられているものと思われます。

(2)北之庄城詳細測量図

北之庄城詳細測量図(部分)

近江八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書42「八幡山城跡・北之庄城跡詳細測量調査報告書」(2008年3月近江八幡市・近江八幡市教育委員会)添付の測量図です。

(3)古地図上の「七ツ池」

近江国大絵図(部分)安政3年

江戸時代にはすでに城跡との認識が薄れていた北之庄城ですが、「七ツ池」は名所として知られていたようです。江戸時代の絵図や戦前の地形図には記載があります。安政3年の近江国大絵図と戦前期の地形図の該当部分を掲載します。

(4)「佐々木氏の家紋 六角氏と京極氏」~廣田平治氏考察

平四ツ目結紋
隅立四ツ目結紋

現在、佐々木氏の家紋は、一般に京極氏が「平四ツ目」、六角氏が「隅立四ツ目」と考えられているようですが、北之庄城の御城印カード(北之庄里山を守る会発行/北之庄山山頂に設置)では、城主とする河端義昌(六角氏綱二男)の家紋として沙沙貴神社の神紋と同じく七ツ割平四ツ目紋を採用しています。これは、守る会顧問の廣田平治氏の考察によったものです。くわしくは、「佐々木氏の家紋 六角氏と京極氏~廣田平治氏考察」(pdf)をご覧ください。

八幡山山系(鶴翼山,北之庄山,岩崎山)

(1)岩崎山~旧梅原新田地所実況図面(M15年)

旧梅原新田地所実況図面(部分)
滋賀県立図書館蔵(使用許諾取得済)

八幡山山系278m峰が岩崎山と呼ばれていることを示す最古の資料です。明治15年(1882)の地積図で、現在、滋賀県立図書館の所蔵です。

「天保6年(1835)信楽代官多羅尾氏の指示を受けて、八幡町梅原治良兵衛らによって、北之庄の湖岸に開発された新田の状況を示す」絵図です。北之庄村(現北之庄町)と丸山村(現円山町)の境界付近の西部に「岩崎山」の表記があることから、少なくとも本図作成時点の明治期において278m峰が岩崎山と呼ばれていたことがわかります。

(2)八幡山最高点~地形図八幡山三角点の変遷

旧図「八幡町」大正9年

現在、一般に鶴翼山(八幡山)の標高は、271.8mと認識されていますが、これは八幡山城北の丸跡にある三等三角点の標高です。実際の最高点は、村雲御所瑞龍寺本堂の立つ本丸跡にあり、等高線からは280mを超えることが読み取れます。昭和36年(1961)瑞龍寺が京都から移築される以前は、本丸跡に三角点があり、旧図では、大正9年が285.7m、昭和21年は同じく285.7m、昭和43年が284mと三角点の位置が移動しています。鶴翼山(八幡山)三角点を掲載する旧図を集めました。

(3)北ノ庄村山~朝鮮人道見取図

朝鮮人道見取図(部分)寛政12年

「五街道分間延絵図」(全百三巻)中の「朝鮮人道見取絵図」(全二巻の第二巻)の八幡山の北に連なる峰々を描いた部分に「北ノ庄村山」の記載があります。八幡山の北東部で最も高い峰に「北ノ庄村山」とあることから現在の岩崎山を指している可能性もあります。八幡山山系を南西部の八幡山と北東部の北ノ庄村山に二分して捉えていると思われます。

この絵図は、正式には「五海道其外分間延絵図並見取絵図」(ごかいどうぶんげんのべえずならびにみとりえず)といい、江戸幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五海道及びその主要な脇街道の実態を把握するために作成した絵図です。道中奉行の直轄事業として寛政12年(1800)から7年の歳月を費やして完成したものです。

(4)岩崎~八幡町市街地図(部分)

八幡町市街地図

戦前期、市制施行前の八幡町(現近江八幡市)の市街地地図です。本サイトとしての注目箇所は、八幡山の北東麓に記載のある「岩崎」の地名です。八幡山278m峰直下の東麓に記載されています。278m峰を「岩崎山」と呼ぶことの傍証と考えます。

その他

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