この絵図は、「天保6年(1835)年、信楽代官多羅尾氏の指示を受けて、八幡町梅原治良兵衛らによって、北之庄の湖岸が開発された新田の状況」を示したものです。
滋賀県立図書館が所蔵し、県立図書館の「近江デジタル歴史街道」のページでデジタル公開されています。八幡山山系278m峰が「岩崎山」と呼ばれていることを示す最古の資料です。
地図の左上隅(西)に「岩崎山」の記載があり、下部には「北之庄澤」の記載があります。絵図の左上(西部)から右下にかけての部分には、各所に「北之庄村田地」の記載があります。また、絵図の右上部(北部)には、「丸山村耕地」「丸山村田地」等の記載があります。これらから、現在の北之庄町と円山町の境界付近を描いた絵図であることがわかります。その境界付近の西部に「岩崎山」の記載があることから、八幡山山系の278m峰が、明治期に「岩崎山」と呼ばれていたことがわかります。