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北之庄城
(岩崎山城)

朝鮮人道見取図
~「北ノ庄村山」

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北ノ庄村山~朝鮮人道見取図

「朝鮮人道見取絵図」

朝鮮人道見取図(八幡町周辺部分)

地元で八幡山山系254m峰を北之庄山と呼ぶ根拠としている資料です。

「朝鮮人道見取絵図」は、「五街道分間延絵図」(国立博物館蔵)の一部で、現在の朝鮮人街道(県道2号線に相当)を描いた絵図です。その全二巻中の第二巻が、八幡の旧城下、八幡町を描きます。その八幡山の北東に連なる峰々を描いた部分に「北ノ庄村山」の記載があります。八幡山の北東部で最も高い峰に「北ノ庄村山」とあり、八王子社(元の北之庄神社)の裏山が、「北ノ庄山」の支峰のように低く2、3の峰が描かれていることから現在の岩崎山278m峰を指している可能性があります。他の絵図等でもしばしば見られることですが、八幡山山系を南西部の「八幡山」と北東部の「北ノ庄村山」に二分して捉えていると思われ、「北ノ庄村山」278m峰を主峰として現「北之庄山」254m峰をその支峰と捉えていると考えられます。

「五海道其外分間延絵図並見取絵図」

この絵図は、正式には「五海道其外分間延絵図並見取絵図」(ごかいどうぶんげんのべえずならびにみとりえず)といい、江戸幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五海道及びその主要な脇街道の実態を把握するために作成した絵図です。道中奉行の直轄事業として寛政12年(1800)から7年の歳月を費やして完成したものです。

その「絵図並びに大概書き」には、「縮尺は一里を曲尺七尺八寸とし、道路の迂回曲折は方位に従って真直に伸ばして衡図としたから、国や郡の境界、宿や村の区分、河川の源や末派、および寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、一層明らかとなったが、これらは悉く図の傍らに註記し…」「また、見聞きできる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、遠近にしたがって具に載せた。…」(訳文/柳瀬喜代志)とあるように、幕府の公式事業として信頼の高いものであることを伺わせます。

朝鮮人道見取図(八幡宮周辺部分)
朝鮮人道見取図(「北ノ庄村山」記載箇所)
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